Oct 06, 2010
ウォーターサーバーのある生活は魅力的
最近のお店にウォーターサーバーが置いてあり、ば必ず飲んでしまう。レバーを押すだけで冷たくて美味しい水が出てくるので、この家にいるととても便利で素敵なんじゃないか惹かれてしまう。しかし、この前TV番組での浄水器とウォーターサーバーのどちらがコストがいいか比較するコーナーがあり、圧倒的に浄水器が安かった。それを見て家は浄水器のまま良いかとあきらめた。生活する上で、水周りというのはなくてはならない存在であり、したがって、虐待してしまうのは仕方ないことですよね。そしていよいよも疲れ目に見える形で症状を出してくれますね。リークは、その症状の一つ。そんな時は、毎日努力している物の周りを上に弱体化させる意味でも専門家にお願いしましょう。自分で何とかしようとするよりも間違いがないから。確かリークが解消されると、必ず水道の便利さに感謝したくなるようなものです。
◇「平常心」で捕り続ける
「あれ、知らないの? 房総ではいまも捕鯨が続いているんだよ」。まだ食糧難だった時代、みりんやしょうゆで味付けした鯨ステーキを食べた経験のある方々なら「常識」かもしれないが、千葉に来て3年目の研究員は、初めて耳にする話に耳を疑った。地元・南房総市和田町の商工会のホームページをのぞくと確かに「クジラと花の町」を名乗っているではないか。捕鯨と言えば遠く南極海の、調査捕鯨船と反対派とのバトルばかりを思い浮かべてしまうが、こんなに身近で取材できるとは! 調査員はさっそく和田町へ車を走らせた。20日のクジラ漁解禁に合わせ、その研究結果を報告する。【研究員・黒川晋史】
◇活気づく漁解禁
和田町の「外房(がいぼう)捕鯨」は、「関東唯一の捕鯨基地」を守る県内唯一の捕鯨業者だ。30トン級の船を沖合20キロ付近の漁場まで走らせ、南方から黒潮に乗って回遊し、和歌山沖から宮城県沖へと続くクジラの通り道「鯨道」で待ちかまえる。狙うのは体長約10メートル、体重約15トンの「ツチクジラ」だ。
今年も20日の解禁日、さっそく1頭が水揚げされた。翌21日朝、解体が始まると、多くの地元住民が詰めかけた。「包丁さん」と呼ばれる解体の専門家が手際よくさばき、肉はその場で加工業者や地元住民に即売される。
近くの小学生約40人も見学に訪れ「すごい!」「かわいそう」などと悲喜こもごもの声を上げる。市立和田小学校5年、吉田岳竜君(11)は「大きくてびっくりした。こんな生き物がこの世にいるんだと思った。見てよかった」と興奮気味だった。
地元の小中学校では、1カ月に1回程度、竜田揚げなど鯨肉を使った給食が出るという。塩や調味料で味付けした干し肉「タレ」は町の名物として人気が高く、漁港の近くにはクジラ料理の店も健在だ。7月ごろの捕獲シーズンは、「クジラの町」の活気が復活する。
◇共生の歴史
房総の人々は、いつからクジラと向き合って来たのか。調べを進めると、時代ははるか昔までさかのぼった。加茂遺跡(南房総市)、山野貝塚(袖ケ浦市)、加曽利貝塚(千葉市)、飛ノ台貝塚(船橋市)など、県内の縄文時代の遺跡からは、至る所でクジラの骨が出土している。シャチやイルカの漁に使ったとみられる丸木船や、クジラの骨を使った皿も。当時は多くの人々がクジラなど海の哺乳類を食べ、骨まで残さず利用する生活を送っていたようだ。
南房総の捕鯨が組織的に営まれるようになったのは、江戸時代の明暦〜宝永期(1655〜1711年)ごろから。当時の捕鯨基地は和田町ではなく、内房側の鋸南町の勝山地区にあった。同地区の醍醐新兵衛が、東京湾口にあたる勝山沖で夏季にツチクジラ漁を営む集団「醍醐組」を結成。独占的な捕獲権も持ち、明治維新を迎えるころまで10代にわたり漁を続けた。
二百数十年にわたり捕鯨基地だった同地区近辺には、ツチクジラを慰霊した多数の「鯨塚」が残る。同町内の加知山神社には「サア突いたかしょ突いたかしょ、ホイ槌(つち)のこもつは突いたかしょ」と漁をほうふつとさせる歌詞の「鯨唄」が残り、毎年7月の祭礼で歌われているという。
明治時代以降は、複数の捕鯨業者の新設、合併などが進む中で、捕鯨拠点は勝山から、館山、乙浜へと少しずつ移った。戦後の1948年、外房の和田町へ拠点ができ、69年からは、外房捕鯨1社が捕鯨を担う態勢が続いている。
◇国際関係にほんろう
明治以降の捕鯨の隆盛と衰退は、日本の国際関係をめぐる歴史の流れと重なり合う。クジラの皮下脂肪からとれる「鯨油」は、かつては世界的に燃料などの貴重な資源だった。米国東インド艦隊の司令長官、マシュー・ペリーが1853年に房総の対岸の三浦半島・浦賀(神奈川県)へ「黒船」で訪れ、開国を迫ったのも、鯨油の確保が絡んでいたと言われる。当時の日本近海は米国が「ジャパン・グラウンド」と呼んだ世界有数の捕鯨ポイントで、捕鯨船団の燃料(薪(まき))などの補給基地として、森林資源が豊富な日本が注目された。翌54年に結ばれた日米和親条約にも、捕鯨のために必要な条文が少なくなかった。
鯨油はその後もランプの燃料、洗剤、火薬、農薬、マーガリンなどに利用されたが、世界各地で原油が見つかり、石油化学の発達で代替品が生産されるようになると、徐々に需要が減り、乱獲を危惧(きぐ)する指摘とあいまって、捕鯨は世界的に衰退。逆に、動物愛護の機運が高まり、82年には国際捕鯨委員会(IWC)により商業捕鯨が禁止されるに至った。
70年代までは、東北沖などでミンククジラを捕獲していた房総の捕鯨も大打撃を受ける。以後、規制対象外のツチクジラのみの捕獲を細々と続ける状態で、捕獲頭数も国の方針で年26頭までと制限されている。
◇風土とつながる伝統
捕鯨については、勢い、「動物愛護」と「伝統文化」のどちらを優先すべきかの二者択一を焦点にした議論ばかりが目立つ昨今。複雑な思いの和田町の漁師たちも少なくないが、そのスタンスを一言で言うと「平常心」。IWC総会に出席経験がある外房捕鯨の庄司義則社長も「確かに昔に比べたら(捕鯨の)ニーズは小さくなった。でもね、やはり、続けていかなくてはいけないと思うんですよ」と、時に訪ねてくる海外のメディアにも肩ひじ張らずに、地元の立場を説明してきた。
しかし、なぜ、房総沖で捕鯨が営まれてきたのか? 肝心の疑問に対し「それはね」と身を乗り出した庄司社長は「この辺は水深1000メートル以上の深い海域が、すぐ沖にあるんです。ツチクジラは普段は遠くの深い海にしかいないのですが、南房総沖では、近海の漁師と出会ってしまうんです」と説明する。
「特殊な地形の中で人間とクジラがたまたま出会い、じゃあ捕りましょうかという関係になったのでは、と思うんです。会わなければ、捕りましょうともなりませんからね」と庄司社長は続けた。
聞いてみると、至極単純な理由。だが、自然や文化の偶然の出合いが織りなす「風土」が、確実にその土地の歴史や伝統につながっているという当たり前のことを、再確認した研究員だった。
◇ ◇
◇参考資料
クジラと日本人の物語(東京書店)▽和田町史(同町)▽江戸東京湾 くじらと散歩(ごま書房)
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◇研究所長の感想
東日本16支局長の会議後の懇親会に鯨のタレを持参したところ、大好評だった。年齢が上の世代ほど手を伸ばしていたのは子ども時代の記憶ゆえかもしれない。それにしても、捕鯨が房総で営まれてきた理由が分かりスッキリ。それがまた、地形という偶然であったことが因縁めいていて興味深い。【前田浩智】
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◇設立趣旨
毎日新聞千葉支局に設立された仮想シンクタンク「ちばみなと研究所」は、県内の毎日記者が研究員を兼ね、房総半島の謎や不思議に迫ります。想像力が時にとっぴな結論を導くとしてもどうかご容赦を。テーマ提案や情報提供も歓迎します。あて先は〒260−0026千葉市中央区千葉港7の3毎日新聞千葉支局内「ちばみなと研究所」。電子メールはchiba@mainichi.co.jp
6月22日朝刊
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